サンタオブログ

サンタオのブログです。普段あまり人に言えないけどよく考えていることを吐き出しています。

彼方からの手紙の解釈

スチャダラパーの「彼方からの手紙」という曲は名曲だなあと思った。

この曲のどんなところが名曲かというと、トラックもさることながら、独特の歌詞に僕は注目する。

もちろん僕が言うよりも前に腐るほど評価されてきた曲なんだけど、ちょっと調べただけでも歌詞の解釈が違うところが名曲なんだなーと思うんだ。

芸術って受け手の心とか思考とかに大きく影響を与えるものほど素晴らしく感じるんだよな。

で、それを実現させるものは、受け手の解釈に多様性を持たせる「余白」があることが大きいと思う。

「彼方からの手紙」はそんな「余白」がたくさんある曲だ。

僕の解釈はこの「彼方」は「自らの精神を解放した自分」じゃないかと思うんだ。

日本に限らないことかもしれないけど、自殺者3万人(本当は18万と言われている)を出すこの国の人間は、もうずいぶんと「誰かのための自分」として生きている。ちょっと思い返してみても、何かしら自分に折り合いをつけ、社会の適応を目的として、ちょっとずつちょっとずつ自分の感情とか価値観を放り出して、立派な社会人を目指していることに多くの人が気づくんじゃないかと思う。

そこを脱した世界。自分を生きている世界。それが「彼方」じゃないのかなあ。

僕はうつ病にはなっていないとは思うんだけど、結構ここ数年は曇天な人生で、自分についてすごくよく考える時期で、いつも何かしらの不安や、イライラや、哀しみとかそういう暗い気持ちで生きている。そんな状況を脱したくていろんな本とか読んでみたんだけど、どうやら、大きな原因のひとつはこの「自分の人生を生きていない」ことではないかと思った。この曲の「案外桃源郷なんてのはここのことかなってちょっと思った」ってところですごく感じた。桃源郷は特別な場所にあるわけではない。

幸せというのは、経済によって左右されないものではないだろうかという考えが今強くある。自分で考え、自分で感じ、自分のことを伝え、自分の価値観で決めることの比率をもっと上げれば、人間は生きている実感を手に入れることができ、幸せに感じるんじゃないだろうか。そりゃなんでもかんでも思うがままにはいかないのが人間社会だけど、8:2くらいわがままになってもいいんじゃないか。好きに生きていいんじゃないか。

今の僕はこの曲を聞くとそんな考えがめぐる。

 

スチャダラパーはこの曲にそんな意味を込めてないかもしれないけど、その時間、その価値観、それぞれによって解釈が変わる曲。すごいと思う。

 

 

自分の人生の舵をとれない

タイトル通り、自分の人生の舵を取ることができない。

自分の人生はどうなるか、この先どうなるのかということは、完璧には予測できない。

でも、ある程度予想通りになってきた人生だから、なんとなくわかっちゃうんだろうな。そういう気持ちでいる人に「明日のことは誰にもわからない」って真理を教えても何が変わるっていうんだろう。明日を予想して、そのとおりの明日がきちゃうんだもん。

それでも、もしかしたら明後日はその先は1年後はきっとって思って、方角くらいは決めて舵をとりたいが、それすらできない人生が続いている。

かと言って流されていたいわけではなく、あたふたしている。

高城剛の生き方、考え方に触れると希望が湧いてくるけど、かといってじゃあ今の俺はどうするってことがわからないし、考えて考えて自分と対話して対話しても、出てこないんだ。すると発想は変わって、対話しても対話しても何にも出てこない自分がおかしいんじゃないのか?ってことになる。すると原因を探しだして、あー僕はアダルトチルドレンだったんだ。あー僕はほとんどうつ病だったんだな。ってわかるんだけど、じゃあその先どうするってなるとこれまた結局舵は取れないんだな。そういうの分かったって、即効性のあるクスリもないし、自分自身で時間をかけて治していくしかない。

そうしていくうちにも働かなければならないわけで、働くには仕事を探すわけで、そうすると結局自分の人生の舵をきる必要がでてきて、また堂々巡りになる。

そういう人間なんだ。僕はもうそういう人間なのだ。と割り切れるかっていうと、そんな勇気はない。

どこかでやる気を出して何かをするということができない。

不思議だ。

何ひとつとしてやる気にならないし、惰性で漫画を読んでも結局虚しい。

自分が欲しているものがわからない。

じゃあ何のために生きているんだろう。欲しているものがわからない人生ほど辛いことはない。

正しいネガティブのすぎたさんが「やりたいことって結局、自然とやっちゃっていること」って言ってたけど、自然とやっちゃっていることを僕は望んでいない。

確かに漫画は今ある問題とかそういうのを一瞬忘れさせてくれるけど、僕が望んでいるものは他にある気がしているんだ。

それが何かわからなくて今日も明日もあさっても探して探して生きていくしかない。

他人の悩みを侮辱することはしてはいけない

頭でっかちに育ったせいか、僕の中には固い価値観ができている。

30歳を迎え、少し柔らかくなってきたのかなと思うが、それでもやっぱりなかなか壊すことはできない。

その価値観ゆえに、それから著しく外れたものにたいしては侮辱をしていることが多い。

昔、大学の友人が彼女と別れるかについて激しく悩んでいた。

理由を聞くとセックスがあまりに少なかったからだそうだ。

その時の僕はその理由は仕方ないことだと思った。セックスは必要なことだから。

だが、その先からが理解できなかった。

その友達は、彼女と別れていないのに、他の女の子とセックスしたそうなのだ。

僕はそのことが許せないというか、なんてかっこ悪いのだろうと思った。僕の美的感覚に従うなら、その彼女にはセックスを原因に別れを告げ、きちんと終わらせてから、次の子と付き合うべきだった。

だが、のらりくらりと別れたいけど別れられない。。。でも別の子とセックスはしちゃった。その子と付き合うかどうかどうしよう。。などと言っている彼に否定的だった。

 

それから10年の月日がたち、今、僕はセックスレスが原因で彼女と別れようとしている。

この彼女とはセックス以外は問題ない。セックスだけが自分の価値観とかけ離れているのだ。

僕はこの問題に心底悩んだ。必死で解決策を練った。その考えの中に、「風俗に行ってみてはどうだろう」や「他の子ならどうなんだろう」といった考えもあった。

そうして気づいた。

大学の彼もこういう風に悩んでいたのだなと。

20歳そこらの男の子がこの悩みにぶち当たればそりゃ他の子とセックスしたりもするよなあと理解できた。

多くの悩みごとは、その立場にならなければきっと理解できないことだったと思う。

想像力がいくら豊かであったとしても、きっと理解できないことなんだ。

そのことに気づいた僕は反省するとともに、理解できないことに対する諦めも感じた。

 

人間は他人を理解することが難しい。立場が全く同じになることなどない人生で完全な理解はおそらく起こりえないはず。だからこそ、どんな人間に対しても敬意を払うべきなんだな。理解できないことを理解することで、それはきっとできると思う。

もしかすると、この考えは、突き詰めると、生命に対し敬意を払うということになるのではないだろうか。