サンタオブログ

サンタオのブログです。普段あまり人に言えないけどよく考えていることを吐き出しています。

指導者

僕は中学の時、部活で野球をやっていて、その顧問の先生は練習でバントを失敗するたびに、まるで罰ゲームのようにげんこつをする先生だった。そのげんこつはすごく痛くて、血が出たか頭を触って確認してしまうようなスピードとスナップをきかせた「すりこむ」ようなげんこつだった。その時期からか、僕は「厳しく指導をする」ということに対して疑問を持って生きてきた。厳しい指導は決していい結果を生むことはない。むしろ恐怖から萎縮を生み、のびのびと力を発揮できないではないか。こんなものはなくなってしまえばいいのだ。と考えてきた。考えというよりも信念に近いほど固定されたもので、「極度の厳しさ」=「悪」だとすら思っている。SLUMDANKの安西先生だって、指導方法を改めたではないか。指導者は「いい塩梅」で「指摘」と「賞賛」を与えるべきで、そこから生まれるものが優れたものなのだ。

でも、この世にはそうじゃないものがたくさんあって、それがとても悔しい。例えば「演技指導」だ。

蜷川幸雄。つかこうへい。井筒監督。

彼らは「優れたもの」を作るため、演者をボロクソに言うことが多々ある。罵倒して泣くまで追い込む。僕の考えからするとひどいやり方で、こんなやり方でいいものなんかできるか!と言いたいけど、悔しいけどいいものができている。また、彼らの作品で鍛えあげられた役者はどんどんいい役者になっていく。自分の考えの整合性が取れなくてもやもやする。僕が間違っているのか?もやもやして15年くらいたって、いろいろな話を聞いて、ある考えに至った。

やっぱり厳しさというものは物を作り出すということにおいて必要である。ただ、その厳しさにはいろいろな条件があり、おそらく大きくわけて3種類の厳しさがあると考える。

1つ目は「静かな厳しさ」
よりよいものを作り出すためには、トライアンドエラーと言うような「研磨」していくことが必要なのは間違いないと思う。何度も何度も指摘されて、意見を取り入れて、壊して作って壊して作っていくことで、優れた形になっていく。そこには「しつこさ」が必要で、しつこく指摘する人はきっと「厳しい」というイメージを与えるだろう。これは僕にとっては「いい厳しさ」で指導相手の自尊心を傷つけない方法だと思う。

2つ目は「罵倒する厳しさ」
「このクズ野郎!やめちまえ!死ね!」という罵倒をする指導方法。これが何より嫌いだった。自尊心ボロボロじゃないかと。でも、この自尊心をボロボロにするのが目的らしい。えー!!!と思ったが、それが目的らしいのだ。一度指導相手のアイデンティティやプライドをケッチョンケチョンのボロボロのボロボロにすることで、いいものが引き出せることが多くあるらしいのだ。信じられない!でも、あるらしい。例えばつかこうへいはモデルだった阿部寛にオカマの役をずっとずっとずっとやらせて、プライドずたずたにしたそうだ。しかしそこから阿部寛はいい演技ができるようになったそうだ。

まず上の2種類。この2つに共通することは「作品」や「指導相手」に愛や尊敬を持って接していることではないだろうか。これは言葉では説明できないけど、指導者の言動から感じ取れるものだと思う。くそみそに厳しいことを言うし、しつこく何度も指摘してくるからうざいけど、でも、この人は真剣に考えているんだ!という心が、厳しい指導を頑張って消化吸収させるのではないかと思うんだ。そして結果的に「あの経験があってよかった」と感謝につながる。

ここで3種類目の厳しさについて触れる。
3つ目は「勘違いした厳しさ」
はっきり言って、世の中の指導者の80%がこれではないかと僕は考える。あらゆることを勘違いして指導しているのではないか。まず指導者という立場になって、自分を支配者だと勘違いする。そして対して深く考えることもなく、厳しさは必要である!と勘違いして、自らの怒りや気分で指導相手を罵倒し、時には暴力をふるう。そこには愛はきっとない。現に僕にげんこつをしていた顧問は、練習中に居眠りをしていた。

本当に優れた指導者というものは非常に少ない。みんなわからぬままに指導者という立場に抜擢されて、わからないなりに考えた結果、下手くそな指導をしてしまうんだろう。では、その下手くそな指導者を減らすにはどうしたらいいのか。それはきっと大好きなものをみんながもっと真剣に持つことで解決されていくのではないか。そこから「愛」が生まれる。もう使い古されまくった言い回しだけど、この世で最も大切なものは「愛」なのではないかという考えに行き着くことが多くなってきた。