サンタオブログ

サンタオのブログです。普段あまり人に言えないけどよく考えていることを吐き出しています。

酒を飲んだ俺が本当の俺

お酒を飲んで記憶が残らないタイプだから、昨夜のことを思い出して激しい自己嫌悪に陥る。

 

酒を飲んだ状態の性格が本来のものかなと思っているから、あれが本当の自分かと思うと落ち込む。

 

客観的に見て全然面白くないことを喋っているわ。あと下ネタが多い。下ネタが多く、かつ異性の前でそういう話題をする人間は、欲求不満で、そのストレスを女性にぶつけて発散しているって書いてあって、思い当たってすごい落ち込む。やっぱどっかでエロいことをしたい。エロい話をしてエロい欲求を満たしているとはクソ最低な気持ちの悪い行いなので、気をつけよう。

理解できない

今更ながら中学生が抱えるような気持ちになった。

自分がわからないのだ。自分が何を目標にし、何を喜びとし、どう生きていきたいのか一切が自分でわからない。

自分が誰なのか自分がどういう人間なのかがわからない。

でも、確かに自分は存在していて、わからない自分というものが他人にわかってもらえないことが苦痛だ。

他人にわかってもらおうと望んでいないけど、人は他人を理解しようとしてくれる。

僕のことはほっといて。自分でもよくわかってないんだから説明なんてできないし、説明したいとも思っていないんだ。本当は人生の目標なんてないし、どの考えが自分の1番なのかもわからない。

何もかもわからないことを理解して。動物園の動物のように扱って。

他人に対しての要求が高い

先日3年ぶりにカラオケに行った。全員初めてカラオケに行ったメンバーで誰がどんな歌を歌うのか全然知らない。

行ってみて驚いたが「この曲いい!」とか「やばい!」とか叫ばれている曲のほとんどが全然いいと思えなかった。

カラオケに行った時に、楽しみのポイントがいくつかある。

1 まさに自分が中学生くらいの時の歌を歌われた時(ラルクなど)

2 すっごい昔の名曲を歌われた時(また会う日までなど)

3 全然知らないけどすごくいい歌を歌われた時

先日はこの3番目がゼロだった。

全曲薄っぺらいし、鼻につく歌ばかりだったのだ。

日本の音楽シーンがどうとかそんなことは知らないんだけど、とりあえずふざけた名前で「本気じゃないですよ。ゆるくいきますよ」みたいなバンド名はなくなってほしいな。

こういう日は、自分の身近な数人だけを見て、「日本の文化の衰退!」とか大げさに考えてしまうけど、きっと他のところには知的でセンスに満ち溢れた人々がいるのだろうなあ。そういう人と知的な話がしたいけど、政治経済の話をされたら僕は全然わからなくて、知的な話はできるけど人間的に冷たかったり、ギャグセンスが全然なかったりする人もいて、ああ他人に要求の高い僕はきっとこれからも友達が増えていくことはないのだろうな。と孤独な気持ちになる。この傲慢さは治らないのかもしれない。

本当にみんないい人なんだよなあ。

指導者

僕は中学の時、部活で野球をやっていて、その顧問の先生は練習でバントを失敗するたびに、まるで罰ゲームのようにげんこつをする先生だった。そのげんこつはすごく痛くて、血が出たか頭を触って確認してしまうようなスピードとスナップをきかせた「すりこむ」ようなげんこつだった。その時期からか、僕は「厳しく指導をする」ということに対して疑問を持って生きてきた。厳しい指導は決していい結果を生むことはない。むしろ恐怖から萎縮を生み、のびのびと力を発揮できないではないか。こんなものはなくなってしまえばいいのだ。と考えてきた。考えというよりも信念に近いほど固定されたもので、「極度の厳しさ」=「悪」だとすら思っている。SLUMDANKの安西先生だって、指導方法を改めたではないか。指導者は「いい塩梅」で「指摘」と「賞賛」を与えるべきで、そこから生まれるものが優れたものなのだ。

でも、この世にはそうじゃないものがたくさんあって、それがとても悔しい。例えば「演技指導」だ。

蜷川幸雄。つかこうへい。井筒監督。

彼らは「優れたもの」を作るため、演者をボロクソに言うことが多々ある。罵倒して泣くまで追い込む。僕の考えからするとひどいやり方で、こんなやり方でいいものなんかできるか!と言いたいけど、悔しいけどいいものができている。また、彼らの作品で鍛えあげられた役者はどんどんいい役者になっていく。自分の考えの整合性が取れなくてもやもやする。僕が間違っているのか?もやもやして15年くらいたって、いろいろな話を聞いて、ある考えに至った。

やっぱり厳しさというものは物を作り出すということにおいて必要である。ただ、その厳しさにはいろいろな条件があり、おそらく大きくわけて3種類の厳しさがあると考える。

1つ目は「静かな厳しさ」
よりよいものを作り出すためには、トライアンドエラーと言うような「研磨」していくことが必要なのは間違いないと思う。何度も何度も指摘されて、意見を取り入れて、壊して作って壊して作っていくことで、優れた形になっていく。そこには「しつこさ」が必要で、しつこく指摘する人はきっと「厳しい」というイメージを与えるだろう。これは僕にとっては「いい厳しさ」で指導相手の自尊心を傷つけない方法だと思う。

2つ目は「罵倒する厳しさ」
「このクズ野郎!やめちまえ!死ね!」という罵倒をする指導方法。これが何より嫌いだった。自尊心ボロボロじゃないかと。でも、この自尊心をボロボロにするのが目的らしい。えー!!!と思ったが、それが目的らしいのだ。一度指導相手のアイデンティティやプライドをケッチョンケチョンのボロボロのボロボロにすることで、いいものが引き出せることが多くあるらしいのだ。信じられない!でも、あるらしい。例えばつかこうへいはモデルだった阿部寛にオカマの役をずっとずっとずっとやらせて、プライドずたずたにしたそうだ。しかしそこから阿部寛はいい演技ができるようになったそうだ。

まず上の2種類。この2つに共通することは「作品」や「指導相手」に愛や尊敬を持って接していることではないだろうか。これは言葉では説明できないけど、指導者の言動から感じ取れるものだと思う。くそみそに厳しいことを言うし、しつこく何度も指摘してくるからうざいけど、でも、この人は真剣に考えているんだ!という心が、厳しい指導を頑張って消化吸収させるのではないかと思うんだ。そして結果的に「あの経験があってよかった」と感謝につながる。

ここで3種類目の厳しさについて触れる。
3つ目は「勘違いした厳しさ」
はっきり言って、世の中の指導者の80%がこれではないかと僕は考える。あらゆることを勘違いして指導しているのではないか。まず指導者という立場になって、自分を支配者だと勘違いする。そして対して深く考えることもなく、厳しさは必要である!と勘違いして、自らの怒りや気分で指導相手を罵倒し、時には暴力をふるう。そこには愛はきっとない。現に僕にげんこつをしていた顧問は、練習中に居眠りをしていた。

本当に優れた指導者というものは非常に少ない。みんなわからぬままに指導者という立場に抜擢されて、わからないなりに考えた結果、下手くそな指導をしてしまうんだろう。では、その下手くそな指導者を減らすにはどうしたらいいのか。それはきっと大好きなものをみんながもっと真剣に持つことで解決されていくのではないか。そこから「愛」が生まれる。もう使い古されまくった言い回しだけど、この世で最も大切なものは「愛」なのではないかという考えに行き着くことが多くなってきた。

悩み悩み

人生に迷うのはもう仕方のないことなのかもなと思う。何をしていても、考える時間が空いた時、ふと迷うものなのかも。

宗教、スピリチュアルなどでよく言われることに、「なすがまま」や「神の意思に沿って」など、自我を減らしていき、やってくる物事を受け止め、流れるように生きるという考えがある。

この考えにそれこそ流されたいと思うことがしばしばある。

宗教や精神世界に対して疑問があるためなのか、この考えに流されたいけど、流されてはダメだ!という気持ちもあって、疲れる。

人間とは迷って、考えて、それでもうまくいかなかったり、思いもよらぬ不幸がやってきたりして、「もう!どう考えて何を選択したらいいの!?」となってしまう生き物だと思う。そんなこと考えている時に、宗教はスッと心に入ってくる。

あなたが悪いんじゃない。もう迷わなくていい。受け入れなさい。

非常に甘い蜜だ。

考えなくていいですよ。って言ってるように聞こえる。

迷うことに考える力を注ぐのではなく、やってきたことをクリアすることに考える力を使いなさいってことなのかな?

思考停止とも違う考え方なのか。

流されないように迷って迷って生きてきたが、いいことあったのかというと疑問だ。

僕が迷うことで、似たような迷いを持った人を救うことができるかもしれないけど、迷うこと自体がない世界になれば、必要ないわけで。

動物のように生きることが1番なのかもしれないな。

でも、ここでまたひとつ悩みが生まれる。

あまり悩まずに生きてきた人ほど、ギャグセンスが乏しい。

原作に忠実

散々誰かが言ったことの繰り返しになってしまうけど、思ったことを書く。

漫画原作の映画化について。

今日「ヒミズ」を見た。が、あんまり面白いと思えなかった。賞をとった作品らしく世間の評価はきっと高いんだろう。

僕は原作のヒミズが好きで、きっとその影響が大きいとは思う。今まで原作を読んだものの中で、映画版もいいなあと思えたことがほとんどない。最近ようやく「原作に忠実な映像作品を作って何が面白いのか?原作と違って当たり前」という考えに至った。もし自分が映画監督で、この漫画を映画にしてくださいと言われたらきっと全然違う話にすると思う。原作ありきの映画って、登場人物の性格のみ残してほとんど関係ない話にするほうがいいんじゃないかな。中途半端な再現度はつまらなさを招くと思う。

僕はクリストファー・ノーランダークナイトが大好きなのだが、あれは原作を読んだことない。原作を読んでいたら、楽しめなかったのだろうか。

と、こんなところまでは考えることができたのだが、それでもやっぱりヒミズを楽しむことができなかった。

なんでか?

作品ってミソとなるところがたくさんあって、ヒミズでいうと、住田の性格って結構重要な要素だと思うんだ。「もぐらになりたい。ヒミズになりたい」なんて言わないと思うんだよな。。。。あ!既に原作を元に作品を見てしまっている!これがいかんのだ!全く別物として考えなくては!

原作を無視して考えてみる。。。うーん。やっぱり面白くない。演技はいいと思う。みんな上手だと思う。でも、結局何が言いたかったの?っていうところが引き込まれないところなんだろうな。原作での作者の込めた感情の部分は、ほとんど加味しない代わりに、映画では監督の感情を込めてほしいんだけど、それがなんだったのかがわからなかった。

なんてことはきっと映画を作っている誰もが思うところなのではないか。気づいていて、それでもそうしなくてはならない何かがあるのではないだろうか。それはお金を元に動かざるを得ない社会的な何かが芸術の邪魔になっているのではないか。映画って悲しい宿命を背負っているよな。高いお金を出して作って、その分を売上なければならないというのが辛い。文明が進歩して、金とか黙らせるくらい安く映画が撮れるようになって、純粋な芸術活動を取り戻したい。

意識の高い友達と久々に再開した話

僕の友達には意識が高い人がいる。それはいわゆる「意識高い系」かというとそこまではなくて、嫌味もない。

そんな友達が1年数ヶ月の海外旅行から帰ってきたので、久しぶりに会って話した。

彼の話は僕の知らない分野の話が多くて、「へー」「そうなのか!」という驚きや新しい知識が頭に入ってくる喜びをくれる。

しかし、僕は彼と「会う日」が近づくと、なんだか少し気が重く感じるのだ。

自分なりに理由を考えてみたけど、彼の話は意識が高い故に、意識の低い僕のコンプレックスを刺激してしまうことが原因のひとつにあげられると思う。

世界を視野に入れて楽しい場所や楽しいものに積極的に触れていく彼。かたや僕は特にそういう欲求がなくて、縮こまったような生活。かといって縮こまるのが好きというわけでもない。そんな気分をこちょこちょとくすぐってくることが彼と話すとなんだか落ち着かないひとつだ。

もう一つ原因を考えると、多分経験や知識は多いが、それを話すことが淡々としすぎているんだと思う。エキサイティングな話方をあまりしないのだ。

僕は昔からお笑いが好きで、何かにつけてお笑い芸人の話を聞いていることが多い。

だから話す時に、起承転結とかどこで笑わせるかとか無意識に考えながら話したりするんだけど、彼にはそれがないんだと思う。

なんでかなーと思った。そこで気づいた。人生の何に時間を費やしたかだなと。

僕がお笑い番組を見てる時に彼は日経新聞を読んでいるのだ。それは僕の知らない知識があって当然だよな。

もちろん、何が好きかということは人との価値観を構築する上で重要なもので、それが彼と僕とで違う故に、なかなか心地よい時間を作ることは難しいかもしれないけど、どうにかしてうまく彼と話ができるようになりたいと思う。